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岡部喜久雄さん。縮景園の慰霊碑前で来園者に由来を語る=2024年7月24日、広島市中区、田井良洋撮影
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現場へ! 記者が見たヒロシマ③

 広島の街が原子爆弾で壊滅してから1カ月余りが過ぎた1945年9月18日。朝日新聞東京本社の出版局カメラマンだった松本栄一が被爆地にたどり着き、8日間にわたる撮影取材を敢行した。

 その象徴的な場所となったのは、爆心地の東1・4キロにある旧広島藩主・浅野家の別邸「縮景園(しゅっけいえん)」。市民から「泉邸(せんてい)」と呼ばれ親しまれていた庭園には大勢の人が逃げ込み、業火に追われて数千人が息絶えたとされる。

 近くに生家があり、東京方面から疎開中だった作家・原民喜(たみき)も園に避難し、その惨状を小説「夏の花」に克明に書き残した。市民の筆になる「原爆の絵」には、水を求めて顔を沈めたまま池の周囲を埋め尽くす、おびただしい数の犠牲者が描き残されている。

 国民を戦争に駆り立て、あまたの命を奪い、失った敗戦国・日本。当時30歳の松本は後年、この園内で見た光景と心境を手記につづった。

 「焼けた樹々(きぎ)の痛ましさ。物音のない静まりかえった池畔に立って、白雲の浮かぶ夏空を仰いだ。むなしかった。なぜか無性にむなしかった」

 松本はこの時、かろうじて焼け残った松の木のそばに、立て札3本が並んでいるのを見つけてカメラに収めた。「戦死者之墓」と書かれ、その数は右から順に21人、38人、5人と記されていた。

 それから42年後の87年夏…

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